奥の手とは文字通り、最後の手段であり、最終奥義のことである。
この奥の手を出し惜しみせず、早い段階で披露していたために、その後の勝利へと繋がった例はいくつもある。
桜木花道は、夏合宿の二万本シュート特訓で得た、ジャンプシュートを先の豊玉戦で披露し、派手に失敗するものの、その後感覚を微調整しつつ、王者山王戦での逆転劇につながった。
緋村剣心は先の宗次郎戦で放った飛天御剣流奥義を、志々雄戦までとっておくなんてことをしていたら、志々雄どころか、宗次郎戦で敗北を余儀なくしていただろう。
雪道での奥の手とは、スタッドレスタイヤであり、チェーンである。
スタッドレスタイヤは雪国の車ならまず装備している代物だが、年中ノーマルで動いている僕の車に取っては、タイヤチェーンが奥の手であり、最終手段である。
この奥の手を出し惜しんだばかりに、巻き込まれた今回の騒動を少し話したい。
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この日僕は妻の実家に向かうため車を急ぎめに走らせていた。
地域の催し物が始まる昼12時までには、現地に着いていなければならない。
当日は雪予報が出ていたのか、朝から雪が舞い、妻の実家に近づくにつれ道にもはっきり雪が残るようになってきた。
幸いにも四駆のため、少しぐらいの雪道では登れるし下れるしで、このまま行けばチェーンを着けずに走り切れそうだと安堵していた。
アップダウンの坂道を抜け、ここを登ればすぐという、傾斜三十度くらいの急な坂道の前まで来た。
この坂は明らかに雪の量が違うと、気づいたときにはもう左折し坂を登り始めていた。
途端、車が空回り始めた。ヤバい!
ブレーキを踏んだのが更にまずかった。
そのままジワジワと後退を始め、左にあるガードレールにやや擦りながら車は止まった。
あー、やっちまった。
購入してから今までこすったことすらないのに!
ここまではよくある普通のスリップトラブルだ。
ややこしくなるのはここから。
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滑ったことは仕方ない、とにかくここから早く脱出しようと思い、タイヤチェーンを荷台から取りだし、右前側から左前側へと装着をしようとしていた。
右側に着け終わるかいなかのタイミングで、僕の手前31センチくらいにまで車が近付いていることに気付いた。
はぁ?と思って見ると、真横に止まったその黒のワンボックスの助手席側の窓が開き始めた。
僕はてっきり、「(スリップして)大丈夫ですか?」
みたいなことを尋ねられると思ったので、何も聞かれないのに、
「えーっと、大丈夫ですから」
なんて話しかけていた。
運転席に座っていたのは、僕と同じ年くらいの女性だった。後ろで子供が遊んでいるのが見えた。
こちらの反応に気付いたのか気付いていないのか、電話をおもむろにかけ始めている。
なんかおかしいなと思っていると、次の瞬間信じられない一言が帰ってきた。
「あの、私も滑ったんです。。。」
はっ?
一瞬意味が良く分からなかったが、同じようにこの黒ワンボックスも滑って登れない状態になったようだ。
右前タイヤの手前30センチに止まってくれているおかげで、こっちはハンドルを切ることが難しいことに気付いたのは、その数秒後。
おいおい、マジかよ。
こちとら、一分一秒でも早く脱出を試みたいところ、想定外の壁が立ちはだかりやがった。
ただ、こちらも両輪にまだチェーンを装着できていないため、そちらを優先すべきだ。
そう思い直し、右側を付け終わり、左側を見ると、縁石に密着しているため、このままだと装着できない。
加えて、こんな時にチェーンが絡まっている。
チェーンをほどいていると、どうやら黒のワンボックスに指示があったらしく、ズリズリと上手に後退をし始めていた。
やれやれ、これで左側をつければこちらも脱出だ。
そう思い、チェーンは片輪のみであったが車を少し右にきり、左側の装着スペースを開けた。
車から降り、まさに左側へ移ろうとした、その時。
前方から何かが近付いて来た!
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前方からの気配を感じて振り向くと、70歳以上の高齢者が乗った白の軽トラが、前方から滑って確実に近付いてくる。
文字通り、このまま行けば正面衝突。
僕はとっさに力付くで車を止めようとした。
人は己の力量を時に計り損ね、大きな力を前にしても受け止めようとするのだ。
それはあの全宇宙が恐れるフリーザ様ですら、孫悟空の元気玉を受け止め、死にかけたように。
僕の車まで30センチというところで、軽トラは止まった。
「こんなものぉぉぉぉぉ!!」と叫んではいたが、これは僕の力ではなく、タイヤとブレーキの作用であることは分かっている。
どうにか止まった軽トラから、そのご老人が出てきて、信じられないことを口にした。
「滑ったから、サイドブレーキを引いたけど、それがいけんかったなー。」
はっ?
僕は自分のルールの一つに、年上の人には無条件で敬語、という項目を上げている。
しかし、この寒さの中、車を滑ってこすったあげく、雪道のしかも下り坂でサイドブレーキという一番やっちゃマズイことを平然とやり、笑顔で近付いてくるこのご老人を見て、僕の精神のリミッターは解除されてしまった。
何やってんのー!!!
ご老人に向かってこれ異常ない無神経な一言をいい放ち、「バックしようか?」という検討違いなことを宣うが、とにかく軽トラを動かさずにそのままでいて欲しい旨を伝え、僕は左側のチェーンを着けた。
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その後タイヤチェーンが両側に装着された僕の四駆は、これ異常ない安定感を獲得し、僕を妻の実家まで運んでくれた。
奥の手とは、物事の最終局面に発動させ、窮地を乗り越えるためのものだが、その局面を見謝ってしまえば、敗北を喫する結果となる。
今回の騒動は、完全にその局面を見謝ってしまった結果だ。
みなさま、どうか雪道では早めのチェーン装着をなされますように。