2018年 12月 29日
自分が覚えている過去の自分より体は動かないもの、という認識
「年末夜警に今年も参加」
年末恒例の消防の夜警に今年も参加。
小雪が降る中の夜警は久々で、よりによってすこぶる寒い。
同じ町内にいるにも関わらず友人と話す機会があまりないけど、こうした地域の行事に参加することで近況が聞けることもあり、一般的には面倒な対象とされている消防活動もそう考えると有意義に思える。
同級生が僕を含め三人入っており、二日に分けて行われる年末夜警の初日にその三人が重なったため昔話にも花が咲いた。
その中で鉄棒の逆上がりの話が出てきた。
「過去の自分との対峙」
僕ら三人は言ってはなんだが当時体育に関してはわりと動けるほうだった。
逆上がりにしても、夜警初日に同席している先輩には当時苦手だったという人がいたが、僕らには何が難しいのか分からないくらいだった。
逆上がりは足がつく高さのものなら、実は誰でも出来る。足がつかない高さになると、途端にレベルが上がる。
当時の僕は出来ていた。
しかし、今年の初めに廃校になる母校に最後の内覧会に訪れた時、久々に鉄棒をやってみて逆上がりが出来ないことに驚愕した。
あの頃より少し背が伸びて、既に足がつかない鉄棒ではなくなっていたため、膝を曲げる形でぶら下がり、「ふんっ」と足を宙に蹴り上げるも足が上がらない。
まるでまな板の上でもがく魚のようにバタバタと惨めな絵になっていた。
これは残念ながら鉄棒に限らず他の遊具にも実は当てはまることがある。
試しに、うんていをやってみて欲しい。
こんなに辛かったっけ?と思うはず。
試しに、のぼり棒に登ってみてほしい。
こんなに自分の体が重いのかと、己の腹をマジマジと眺めることになるかもしれない。
悟るのは、今現在、己の筋力が自らの体重を支えることができないほど低下しているという抗うことが出来ない現実である。
幼児や園児が無邪気にこなしている遊具も実は彼らにとっては筋トレをしているのと同義と言えなくもない。
僕たち大人は普段から筋力を鍛える意識を持ち、かつ鍛えていなければ遊具で遊ぶことすらままならないことを久々に訪れた母校に、廃校前に最後の贈り物をもらった気がする。
「過去の自分への慢心と決別」
話は夜警の会話に戻り、その(当時足がつかない)鉄棒での逆上がりでは、上半身を鉄棒の上に持ち上げることも容易ではないことを話すと、友人は楽勝だとも言える不敵の笑味を浮かべていた。
彼らが今現在どの程度の筋力を維持出来ているのかは不明だが、やれ腰が痛い、肩が凝ったなどと宣っていることを聞けば、彼らをもってしても逆上がりは容易なことではないような気がする。
一方、僕は彼らより先に己の筋力の低下を教えられたため、現実に抗う行動をそのほぼ11ヶ月後に起こし始めた。
夜警明けで少々眠く、また道が凍るほど外気は低かったけど、当初の計画通り日曜日は距離を走る日のため、20キロばかり走ってきた。
10キロはこれまで何度もこなしてきて、まあまあ走れるようになってきたなという実感があるけど、20キロはまた別物だった。
久々に足が棒になった。
毎日5キロを走ってもマラソンは完走出来ないと、かの名将小出監督が著書に書かれているように、距離を走るには距離を走る練習をしなければならない。
中学、高校時代の部活を通して20キロなど走ったことはなく、今の僕は現在進行形で記録を更新している、という実感がある。
当時やってやれないことはなかったはずだが、若さによる慢心があったことは否めない。
今の僕には若さによる体力維持または増強は期待出来ない。
だから積極的に取り組む必要性を感じている。
だから走っている。
走っているから言えるけど、今何もしてないアラフォー男子諸氏はかなり焦ったほうが良いと思う。
過去の自分ほどあてにならない指標はないから。
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