2019年 02月 26日
絶対的な勝利と相対的な勝利
なぜサブ4を達成したのに嬉しくないのか考えてみました。
誰かと戦って勝ったわけではないからなのか、と考えてみた。
大会というレースである以上、順位によって勝ち負けが決まる。
では、走り終えて嬉しいという感情が湧いてこないのは、一人で参加したために競う知人がおらず勝った負けたがないからなのか。
フルマラソンは毎月全国どこかで大会が開催されるような、国民的スポーツになりつつあるが、一般ランナーにおいてレースといえど誰かと競うという場面は実はあまり無い。
もちろん、タイムを競い合うライバルと参加すれば、それはお互いに競うことになるが、そうであっても結果的に相手のタイムもさることながら、自分のタイムがどうかという基準で結果を判断しないだろうか。
自分自身ではうまく感情を表せずにいたが、逆に、会う人に『すごいね』と言われて初めて嬉しいという感情が出てきた。
それは、相対的な評価を得たからだと思う。
この『すごいね』の中身を表すと、
『(一般的に、普通に生活している人ではまず無理な記録を出せて)すごいね』、ということだ。
言い換えれば、僕に『すごい』と声をかけてくれる人は、フルのタイムが5時間~6時間くらいの人、フルは走ったことが無いけど10キロくらいは走ることが出来る人、または過去に走っていた人であることが多い。総じて、僕は相対的に彼ら彼女らに勝っている、と言えるが、サブ4は実は誰でもそれなりに走り込んでいれば達成できるのです。
ちなみに、サブ4以上の人から見たら、『ほぉ~、お宅、なかなか速いですな。次もがんばりましょう。』と言われることだろう。
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小学生の頃に僕は剣道をしていた。
試合の結果に対して、負けて悔し泣き、勝っても嬉し泣きが出来ていたのは、なにも刺激と反応との間にスペースを空ける術を身に付けていなかったからだけが理由ではない。
そこにはライバルという存在がいて、負けたくない相手がいた。
自分自身に課した目標を達することより、目の前のあいつに勝つことでしか優劣の基準を持てなかったのだから、そりゃ刺激のままに反応するわなと。
当時の実力といえばどんぐりの背比べでしかなかったけど、地域の大会で勝つという相対的な勝負の結果に対する感情の起伏は今と比べ物にならない。
武道の世界では戦わずして勝つことが最良とされているが、一般的には目の前に立つ相手に勝たなければトーナメントを進むことは出来ない。
必然、相対的な勝ちを求めることになる。
イチローが、チームが不調な時であっても、自分の打席がどうだったか、最善のパフォーマンスを発揮出来たかと考えられるのは常に絶対的な勝利を目指しているからではないだろうか。
相対的な勝ち負けが自分の食い扶持にも関わってくる場面で、絶対的な勝利にこだわれるのは改めて勝つとは何なのかを考えさせられる。
僕にとって今後の勝敗もやはりタイムになってくるだろう。
勝って嬉しい、負けて悔しいという感情は相対的な勝負におけるもの。
絶対的な勝負の上では、勝って改善、負けて改善、なのではないだろうか。
つまり自分との戦いと言われているものの正体はこのことである。
マラソンとは常に絶対的な勝負をしていること。
オリンピック選考会に出るような選手はまた違うかもしれないが、僕を含め一般ランナーは常にこの絶対的な勝負をしている。
自分のタイムを見て遅いなと感じるのであれば、それは練習の結果であり、目標にしていたタイムが出た、早くなったと思えれば、それは日々のトレーニングにおいて目標とするタイムを達成するに必要な絶対的な負荷を自分自身に与え続けた結果である。
総じて仕事にはならないマラソンというスポーツのトレーニングにおいて、自分自身に負荷をかけ続けることは難しい。
だからマラソンで自分のベストを出すのは難しい。だからマラソンは面白い。
僕はサブ4を達成したことに嬉しくなかったわけではなく、正確に言えば、結果を出せたことに安心し、またこれまでのトレーニングの手応えを感じているのだと思う。
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